あえて定義づけをしない「メタバース」


1990年代のある日。

電気店に現れたおじさん。


「インターネット1つください!」


店の陳列棚の中から「インターネット」と言うものを見つけることができなかったので店員さんを呼んで発した一言だという。


Windowsが世に出たあのデジタル黎明期。ニュースや記事で取り上げられた笑い話のような本当の話だ。インターネット、という言葉そのものがまだ日常ではなかったあの時、「店で買える物質的なもの」しか日本人の概念になかったあの時、インターネットという「何か」をお店に買いに行きたくなる気持ちはわかる。誰もがそう思ってうなずいた。

あの時のあのおじさんにはインターネットに対する説明や定義づけが必要だった。

そしてその記事を笑い飛ばしていた他のおじさんたちも内心「危ない危ない。自分も同じことをするところだった」と胸を撫で下ろしたことだろう。


時は経って、2022年。今、インターネットについて説明を受けなければ使えないと言う人たちはいるだろうか?

インターネットを電気店に買いに行くはいるだろうか?

今、インターネットという言葉を聞いても定義を説明してもらはないとさっぱりわからない、という人はそうそういないだろう。80歳代の高齢者の方でも友達や仲間とLINEで会話している、という人は多い。その方々にインターネットの定義づけをしなければ、LINEを使えない、などということはない。


さらに言うと、若者世代はそもそも空気のようにインターネットが周りに飛び交っている状態でこの世に誕生している。

「水ってなに?空気ってなに?」という定義をわざわざ説明しなくても、呼吸ができ、生きていくことができることと同じレベルで、我々は日々呼吸をするようにネットにつながっている。もう「あの頃」に戻ることは人体の機能上できない、と言う世界である。


「それがなくてはもはや生きていくことすらできない」ものとなった時、その概念に対する定義づけ、と言うものは不要なものとなる。なぜならそのものの意味などわからなくても、それはそこに現に存在して、なくては生きていくことも困難になっているからだ。


今、毎日耳にする「メタバース」という言葉。

今の状況はインターネット黎明期に似ている。誰も定義づけして説明ができないし、仮に頭のいい人たちが説明をしたって、聞いている側はなんだか訳がわからない。

「メタバース一つください!」の状況に近い。


ただ、確実に言えるのは、筆者の私自身が毎日欠かすことなくメタバースの世界に入り、一度も会ったことがない人たちと仕事をし、学び、成長の機会を得ていると言う現実がすでにある、と言うことだ。

今仕事を一緒にしている人たちのほとんどが物理的には一度も、そしてもしかするとこれから一生涯会うことすらない人たちである。


たった2年前の2020年、コロナのニュースを見ていたあの時の自分に、「あなたの仕事のパートナーはアバターで毎日会う人になる日が来る」などと言ったとすると「何を馬鹿な。まだ2040年までは20年もある!」と笑い飛ばされただろう。

だが、今それが現実のものとなっている。たったの2年で。

時々、「あの人たち(ガイアリンクの仲間たち)って本当にこの地球にいるのだろうか?宇宙人だったりはしないか?」という疑問を持ちさえするが、現実にあの人たちと仕事は回っている。


「デジタルの繋がりなんて温かみがないし、リアルには勝てない。アバターなどというゲームか遊びか分からないものが仕事になるはずがない」


そんなこともよく耳にする。

インターネットが出始めたとき、iPhoneが世の中に出た時、同じ話をよく聞いた。

人類には「分からないものは悪いものだ」と思うDNAがあるようだ。


遥か昔、人間が馬車から自動車に乗り換え始めた時も同じことが世間で騒がれたのだろう。「あんなわけのわからない機械で走るものに乗って、もし事故でも起こしたらどうするんだ」と。あの頃の人たちに数十年後、人類は新幹線というものに乗って東京から大阪まで時速320kmでぶっ飛ばしてる、などと言ったら卒倒するだろう。当たり前、と言うのは怖いものだ。


どの時代にも、新しいものは危険だ、人類を悪い方向に導くものだ、という声を出す人々は一定数存在する。ただ、これだけは言える。


人は「速く(早く)て便利なもの」が大好き。


ということだ。新しいものに警鐘を鳴らしている人も例外なく、である。


いやいや、そんなせこせこせずに私たちは海辺でのんびり生きたい。

ネットなんてものもいらないし、メタバースなんてもっての他だ。

という「人間らしい生き方(?)」を目指す人たちもいる。


でもそんな人たちであっても、家族に何かあれば飛行機に乗って、マッハ1の速度で空を駆けて海辺から街に帰っていく。結局、のんびり生きたい!という人でさえもいざとなれば速くて便利なものを使う。こんな時にのんびりなんてしていられるか!と。

親が危篤でも私は馬車でのんびり帰ります。泳いで日本に帰ります。などという強者には今のところ会ったことがない。


飛行機の定義づけをしっかり説明できる人はほとんどいない、にも関わらず、墜落事故にあるリスクはある程度あるにも関わらず、人々は飛行機に乗る。

結局、良くも悪しくも自分や家族のために「速さと便利さ」を追いかけ続けるのが「人間らしい生き方」なのである。


今は馴染みのない、定義づけもできないメタバース。

危ない、怖いと言う人もいる。それは間違ってはいない。

危ないかもしれないし、怖いことが起きるかもしれない。

ただ、そう言う人たちも車には乗るし、飛行機には乗り、クレジットカードで平気でネットショッピングをしている。


そして筆者の私自身、現在ガイアリンクの一員として日本の裏側であるアメリカ大陸のメキシコから仲間たちと仕事をしている。

仕事を開始して1年近くになるが仲間とはリアルでまだ会ったことがない。


見たことも触ったこともないものは怖いものだ。

速くて便利なものは常に危険と隣り合わせでもある。ただ、人類はそれを極限まで安全なものに持っていこうと言う努力を決して怠らない。

結局、人はリスクを負ってでも「速くて便利」を追い続け、その欲に勝つことはできない。


今、メタバースと言う概念は広い意味で我々の日常に確実に浸透し始めている。

いやいや、自分はメタバースなんてものに触れたこともないし、全く意味がわからない。

そう言う人こそ、自分の日常を振り返ってみてほしい。


私が毎日出入りしているような3Dのバーチャル世界とまでは言わなくても、ビデオチャットやメッセージアプリを使わない日はない、と言う人がほとんどなのではないか。これらのものも大きなくくりで言えばメタバース(仮想現実)である。一度も会ったことがない人がチャットグループの大半、と言うことはよくあることだ。ただ、それがあまりにも当たり前すぎて、今までとの違いにすら気づかなくなっているだけだ。


そういったプロセスをたどりながら人類の多くがすでにメタバースの仲間入りを始めている。そしていよいよそれは「定義づけが不要」なレベルになってきていく。こうして茹でガエル状態で我々の世界には新しい概念が常に浸透してきた。

ふとあなたが電車で顔を上げたときにスマホを持っている人が当たり前になったように、ある日ふと周りを見ると「1人1アバター」が当たり前になっている。


今はまだ曖昧な定義の「メタバース」と言う概念が、人々が使い倒していき、「速く(早く)て便利」という人類がDNAレベルで持っている欲に刺さり、もはやなくてはならないものとなってしまった時、自動車や、インターネット、スマートフォンのような定義づけそのものが不要なほどに当たり前な存在になっていくのだろう。


「1人1アバターがなかった時代を想像できますか?」


と、このブログでみなさんに質問をする日はそう遠くはないと思う。










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